KONRYU住民の祈願所として建立
当山は一四五九年に尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の勅願(ちょくがん)により住民の祈願所として建立されました。
史実は定かではありませんが、当時は首里から中部方面の視察の際に、御休み処がこの普天間にあり徐々に整備され、尚泰久王の勅願により開山になったと言われています。
又、もう一つの口伝によれば、中城城主護佐丸公(ごさまるこう)が勝連城主阿麻和利公(あまわりこう)に攻められ落城した際に、城の資材を当地に運び、護佐丸公の菩提を弔う為に当寺が建てられたとも言われています。
創建以来、隣接する普天満宮と一緒に祀られていましたが、明治期の廃仏毀釈政策(はいぶつきしゃくせいさく)により、それぞれ分離して現在に至っています。
沖縄戦の際に、堂宇(どうう)はことごとく戦災により失いましたが、境内のフクギの木は3本だけが残りました。このフクギの木は戦前4本生えており、四脚門(しきゃくもん)として参拝者を迎えていました。
その後、ハワイや南米の県人会を中心に復興資金が届けられ、昭和二十八年に本堂と庫裡(くり)を再建しました。しかし、老朽化により平成九年に山内を一新し、現在の本堂と庫裡(くり)となりました。